- 2008年08月 の記事一覧
- 2008年08月31日(日) 記事No.279 リアル自分史〜中学生編〜
- 2008年08月31日(日) 記事No.278 リアル自分史〜小学生編〜
- 2008年08月31日(日) 記事No.277 リアル自分史〜幼少編〜
2008年08月31日(日) 記事No.279
不幸の序章はまだまだ続きます。
というか、まだまだ序章です。
これくらいのことなら、探せばあるんじゃないかな?と思ってみます。
いや別に不幸自慢がしたいわけでもないのですが。
というか、まだまだ序章です。
これくらいのことなら、探せばあるんじゃないかな?と思ってみます。
いや別に不幸自慢がしたいわけでもないのですが。
中学生編
2000年〜2001年 1年生(12歳〜13歳)
中学に上がると同時に、父親は再婚し
家も、近場に新しい家を建て、引っ越すこととなった。
相手は千葉の人だった。
同い年の男の子1人 1個上の男の子1人が一緒についてきた。
一番上の男の子は、大学に入るということで、一人暮らしをしていた。
どうも、父親の趣味である、ダイビングで知り合ったらしい。
1個上の子はそうでもないが俺と同い年の子は
あまり性格がいいとは思わなかった。
なんというか、卑怯な感じの奴だった。
兄弟そろって、こちらの中学になじめず、いぢめられていたらしい。
また、新しい母親は、今までの家具を一新した。
前の母が使っていた物を使いのはいやだ。ということで、捨てたり
前の家(祖父、祖母の家)に置いてきたりした。
呼び方もそれまで俺や妹は親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいたのだが
「お父さん」「お母さん」と呼びなさい。と言われ
理由を聞いたら「ここはパパとママの家じゃないから!」と
前の母を拒絶するような言い方で言われた。
前の母親との、最大の思い出の品は、俺と妹だというのに・・・。
いや、おそらくその頃から俺と妹を追い出したがっていたのかもしれない。
父親は、その女性に夢中だった。
その女性が言うことは、あまり考えもせずにしたがっていた。
生活の基準が、向こうの家族となった気がする。
夜は11時にもなればブレイカーを落とされ
それ以上パソコンやゲームなどをすることはできなかった。
また、それまで長期休暇の際の母の実家行きは、かろうじで許されていたが
それもダメになり、母親との月2回会う約束も、消されかけていた。
父親いわく「新しいお母さんに失礼だろ。」とのことだ。
こちらの都合など一切考えずに再婚し、失礼も何もあったもんじゃない。
こちらに言わせれば、再婚自体が失礼な話だが、子供の都合など通るはずもない。
学校では、バスケ部に所属した。
文系の部活は美術と吹奏楽しかなく、そのどちらも女性の割合がほとんどだったので
必然的に運動部へとなった。
なら、どうせなら一番厳しいと噂されるバスケ部に入ってみよう。ということだった。
バスケ部に入ったのは正解で
小学校の頃から名は知っていたがそんなに親しくすることのなかった少年T.Nと仲良くなった。
こいつの名は一生忘れることがないだろう。
こいつと、M.Nと俺の3人で、よく一緒に下校した。
また、同じくらい女子のK.AとM.MとA.Mの3人とも登下校した。
どちらかといえば登校のが多かったかな。
元々K.Aとは小5くらいから、昼休憩などに一緒にいる事が多く、付き合いもあった。
A.Mは幼稚園時代からの幼馴染なのだが1,2年はクラスが一緒だったが、その後離れてしまっていて、それが中1で、再び同じクラスとなったのだ。
そしてその二人の友達であるM.Mとも仲良くな・・・ってないな。まだ。
女3人いるところに、俺が混ざると
特に俺はK.Aと仲がよく、話し始めると残り二人をほっぽって、二人だけの世界に入ってたんで
残り二人には、少し恨まれてた感があり
A.Mは幼稚園時代から俺を知っているからまだよかったものの、中学で知り合ったM.Mは完全に俺とは他人だったので、最初は俺のことを嫌っていた。
おそらく、『3人の仲を邪魔する悪者』くらいに思われてたんじゃないかなと思う。
2000年 中学1年夏
ある日、ついに俺と父親がぶつかった。
原因は何かは覚えていないが
「そんなに前のお母さんがいいなら、家を出て行け」
そういわれて、夜中に荷物をまとめることとなった。
その際に、「あんたの貯金は一切渡さないからな。」と言われた。
今にして思えば、すでに使い込んでいたのではないだろうか。と思うのだが。
どちらにしても同じことだった。そのお金が返ってくることはなかったのだから。
夜中に、母親に電話し、今からそちらに行くという事を伝え
父親が家にもって帰ってきていた仕事用のトラックへと荷物を運び
母親の元へと向かった。
トラックの中で、「○○(妹)の事は別だからな?」と言われたのを覚えている。
どうも妹を渡す気はなかったようだ。
そして俺は、母親の住むアパートの前で降ろされ、荷物も投げ捨てるようにその場へと下ろされた。
「じゃあな」
父はそう言って去っていった。
母親が出てきて、とりあえず荷物を家の中に運ぶこととなった。
外は今にも雨が降りそうな天気だったので、急いで入れた。
それからは、母親との二人の生活が始まった。
妹は、母親に会うことを許されず、学校へ行く以外は、ほぼ監禁状態へと変わった。
ストレスにより、視力が急激に落ち、今までめがねなどかけてなかったのが、めがねをかけるようになった。
俺と母親はよく、夜中に車で父の家の前まで様子を見に行っていた。
車の音で気づくのか、家の前まで行くと、自室の窓から手を振る妹の姿があった。
コンタクトは、それだけだった。
しかしある日、母親が誘拐のようにして妹を学校帰りに連れて帰ることにより、妹も母親と一緒に住むようになった。
一度は連れて返されたが
二度目からは妹の友達で、母親同士も仲のいい子のと、その母親の協力で
母親が帰るまでは、その子の家で預かってもらうようになっていた。
そんなこんなしながら、裏では再び親権問題で裁判所を通じて争っていたようだ。
しかし、何があったか(予想でしかないが、再婚相手が何か口出しをしたのではないかと思うのだが)突如、親権をそちらに渡す。と言い出し、それにて問題は終了した。
・・・・・・のもつかの間。
今度は母親が再婚すると言い出したのだ。
相手は一人身のおっさん。
・・・・・・というかうちの母との件で分かれてきたらしい。
別れる前は、子供もいたらしいが、年齢も性別も、人数もよく知らない。
知り合ったのは、大学時代でそれからずっと友人として付き合ってきたらしいが、
いつしかそれが恋愛へと変わり、
今回の離婚騒動の一件も、その男性との浮気がきっかけだと言う。
俺は今度は反対はしなかった。
母親の好きにしたらいいと思うし
あまりその人に悪印象はなかったからだ。
前みたいに子供がいるわけでもないし
そもそも、俺は父親のことは嫌っていたが、母親はそうでもなかったからだ。
中1の終わりか中2の頭くらいかな?
結局再婚した。
しかし・・・静岡の人なのだが、仕事をやめて広島に来て
家でずっとゴロゴロしてる姿は、仕事もしないで母親にくっついてる紐にしか見えなかった。
母親も母親で、父親の時と動揺、その人の言うことには、基本的にイエスマンだった。
・・・いや、女性だからイエスウーマンか。
また、この年、初めて人に見せるべき小説を書いた。
当事流行だったノストラダムスの大予言にちなんだもので
2001年の7月、空から降ってきた大魔王と、中学生が戦うという内容の物だった。
原稿用紙20枚程度の内容だった気がするが、初めてまともに書いた小説だ。
すでに原稿はどこかに行ってしまい読むことはできないが。
タイトル「アンドロメダからの使者」(当事、予言に出てくる「アンゴルモアの大魔王」を、「アンドロメダの大魔王」と間違って記憶していたため。)
あ、はい。どうでもいいですね。自分史続けます。
2001年〜2002年 2年生(13歳〜14歳)
中1の成績。
10段階評価、2と3のオンパレード
たまに5とか。
中2、夏のテスト。
英語19点
社会21点
この結果に感動したのか、大喜びしたのかは知らないが、母親は俺を塾へと通わせ始めた。
英語は元々、単に中1の時の英語の先生が嫌いで、やる気がでなかっただけなので
塾に入ってからは、みるみる成績上昇。
社会も・・・というか英語もそうだが、塾の先生の力量だろうな。
ある程度点が取れるようになった。
この塾の、塾長とは今も関係が続いており
うちの近くまで来たときは、顔を出しに来る。
母親は・・・・・・というかどこの親もそうなのだろうが、勉強しろしろとうるさかった。
勉強していても、ちっとも勉強していないじゃないか。といわれていたし
テストで80点以下だと
「私はテストでどの科目でも80点以下なんか取ったことない」の一点張りだったし
「私立なんか入ろう物なら、お金なんてないんだから」とよく言われていた。
俺はすでに受験する高校を決めていて
(公立高校で、そこそこ頭のえらい方と言われていた高校だ。少なくとも中の上くらいはある。)
「その高校落ちたら、家出て一人で働くから、ほっておいてくれ。」
と、いくら言っても聞かないし、こっちはそこの高校に入れる程度には勉強してるつもりでも
母親は頭ごなしに怒るだけだった。
何かといえばすぐ勉強、勉強の親の考えに
俺は家にいることが苦痛となった。
M,NやT.Nを誘い、よく部活のための体力作りと言って
夜、走りに出ていた。
部活の練習と、そのジョギングとがあって
入学したとき83キロだった俺の体重は、中2の半ばでは64キロまで落ちていた。
持久走でも、学年19人中の4位くらいには位置していた。
ちなみに、中学2年にして小説の次作ができた。
この世界ができるより一つ前の世界から送られてきたアイテムを巡って争うシリーズ物だ
シリーズタイトルは「ミステリーアイテムズ」
第一作目は「ワープガン」だった。
もっとも、2作目を書き終えた地点で、飽きて書いてないのだが。
2作目のタイトルは「宮下 さなえ」だった。
4,5作で完結する予定のこの作品は、2作で未完のまま終わりを告げることになった。
この2作も すでにどこへいったのやら・・・で読めないが。
って、これもどうでもいいですね。すみません。自分史続けます・・・
中学2年生冬
俺はここで、これまでの人生の中で、もっとも出会ってはいけなかったものに出会います。
きっかけは、冬休みに母親の実家に帰ったときのことです。
母の伯父の一人は、塾を経営しており、俺はその塾の生徒の何人かとも仲良くなっていました。
そして、塾で知り合った友達の一人は、当事高校生で、パソコンに詳しく
Win○Xなどの共有ソフト関係や、CD-Rというものの存在(それまで、記録媒体はFDしか知らなかった。)同人ゲームに18禁ゲームなどを知ることとなりました。
そして、それと同時に知ってしまったのが・・・
そう。ラグナロクオンライン。
おそらくこれに出会っていなければ、俺の人生はもっともっと違うものだったのではないだろうか
と思います。
当事βテスト中だったそれは、俺のボロPCじゃ動くことなく、そのときは友人のパソコンから見ているだけでした。
が、いつかやりたい!という決意は、このときに生まれました。
2002年〜2003年 中学3年生(14歳〜15歳)
中3になると、受験生と言うこともあってか、親は余計に勉強しろしろと言うようになった。
ある日、ちょっとパソコンで遊んでたら
「またパソコンばっかりして遊んで、勉強しろ」
といわれたことがきっかけで、キレてパソコンを床に叩き落して壊し
「これでいいんだろ?」と言った。
パソコンがなくなればゲームをする。
ゲームがなくなれば本を読むなりして遊ぶ。
本がなくなれば、自分で小説を書いて遊ぶ。
いくらでも遊ぶ方法はあるのに
「パソコンをしているから勉強をしない。」
という親の考えに頭にきての行動だった。
自分の中で、「勉強をする」と決めたとき以外は、やる気なんて一切ないのに。
結局、俺が志望校に合格したところで、親の考えは変わらなかったが。
基本的には「やって当然 できなきゃ怒る」が親の考え方だったのかも知れない。
このとき、俺が心に決めたのは
「子供の考えを認める大人になろう」ということだった。
俺は、中学のときから「子供だから」という理由で言い分をまったく聞かない大人の考えが嫌いだった。しっかり、志望校に入るだけの勉強はしてたのに・・・。
母親はよく、モデルハウスへとでかけていた。
いろんな家を見て楽しんでいるようだった。
今日言った家は〜と楽しそうに語るのを覚えている。
そんなある日だった。
突然「聞いて! 今日ね、おっきな買い物しちゃった!」
と言い出した。
やな予感を覚えつつ、何を買ったのか聞いてみると
「マンションの1室!」と答えた。
それはそれまで住んでいたアパートが気に入っていたし
いい加減引越しには疲れてきたのでやだったのだが
そのマンションへと、引っ越すことがきまった。
そして、その矢先、再婚相手の男性は、ボリビア(南米の南の方)へと旅立った。
ボランティア活動で2年ほどあちらに住み込みで働いてくる。などと言って出て行った。
向こうでの滞在費は出るが、こちらにまわすほどの給料はでないらしい
完全に趣味だ。
俺としては別に本人の自由だと思っていたのでどうでもよかったが。
学校では、受験生ということもあり、年に数回、公立入試の模擬テストが行われていた。
前半はよく覚えてないが、入試前には、全教科6割程度の成績になっていた。
おそらく、数学が90点くらいで、英語や社会が40点くらいだったと思う。
国語が60点 理科が70点 まぁ、大体そんなもんじゃないかな・・・。
また、塾でも、よく全国の公立高校の過去問を出してきて、塾長と勝負するなどしていたが
結局塾長に勝てたことは 全教科含め1度もなかった。
あの頃は、よく勉強したなぁ・・・などと思うが、親にしてみれば、ぜんぜんしてなかったと言う。
そして、春。
長かった中学生時代に幕を閉じることとなった。
この頃には、M.Mとも仲良くなっていて、K.Aと同じくらいにはなっていた。
T.NやM.Nとも、3年間友に過ごしたが、これでお別れだった。
T.Nは、俺と同じ高校を受験して落ち、私立高校へと進んだ。
M.Nは県内トップのエリート高校へと進んだ。
M.MやK.Aは、俺と同じ高校へと進んだので、お別れかと思いきや、まだまだ付き合いは続くことになる。
小学生編では触れなかったが、俺が小3の頃から好きだった女の子がいる。
彼女も、その高校へと進む事となったのだが、その後彼女は、生意気になり
しかも化粧に目覚めたはいいが、なんか方向性がおかしい。
(というか、元々かわいいのが、化粧して悪くなってる感じ。)
で、俺の心は冷めていった。
同時に俺の心はK.Aへと動くのだが、これはまた高校編で。
2000年〜2001年 1年生(12歳〜13歳)
中学に上がると同時に、父親は再婚し
家も、近場に新しい家を建て、引っ越すこととなった。
相手は千葉の人だった。
同い年の男の子1人 1個上の男の子1人が一緒についてきた。
一番上の男の子は、大学に入るということで、一人暮らしをしていた。
どうも、父親の趣味である、ダイビングで知り合ったらしい。
1個上の子はそうでもないが俺と同い年の子は
あまり性格がいいとは思わなかった。
なんというか、卑怯な感じの奴だった。
兄弟そろって、こちらの中学になじめず、いぢめられていたらしい。
また、新しい母親は、今までの家具を一新した。
前の母が使っていた物を使いのはいやだ。ということで、捨てたり
前の家(祖父、祖母の家)に置いてきたりした。
呼び方もそれまで俺や妹は親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいたのだが
「お父さん」「お母さん」と呼びなさい。と言われ
理由を聞いたら「ここはパパとママの家じゃないから!」と
前の母を拒絶するような言い方で言われた。
前の母親との、最大の思い出の品は、俺と妹だというのに・・・。
いや、おそらくその頃から俺と妹を追い出したがっていたのかもしれない。
父親は、その女性に夢中だった。
その女性が言うことは、あまり考えもせずにしたがっていた。
生活の基準が、向こうの家族となった気がする。
夜は11時にもなればブレイカーを落とされ
それ以上パソコンやゲームなどをすることはできなかった。
また、それまで長期休暇の際の母の実家行きは、かろうじで許されていたが
それもダメになり、母親との月2回会う約束も、消されかけていた。
父親いわく「新しいお母さんに失礼だろ。」とのことだ。
こちらの都合など一切考えずに再婚し、失礼も何もあったもんじゃない。
こちらに言わせれば、再婚自体が失礼な話だが、子供の都合など通るはずもない。
学校では、バスケ部に所属した。
文系の部活は美術と吹奏楽しかなく、そのどちらも女性の割合がほとんどだったので
必然的に運動部へとなった。
なら、どうせなら一番厳しいと噂されるバスケ部に入ってみよう。ということだった。
バスケ部に入ったのは正解で
小学校の頃から名は知っていたがそんなに親しくすることのなかった少年T.Nと仲良くなった。
こいつの名は一生忘れることがないだろう。
こいつと、M.Nと俺の3人で、よく一緒に下校した。
また、同じくらい女子のK.AとM.MとA.Mの3人とも登下校した。
どちらかといえば登校のが多かったかな。
元々K.Aとは小5くらいから、昼休憩などに一緒にいる事が多く、付き合いもあった。
A.Mは幼稚園時代からの幼馴染なのだが1,2年はクラスが一緒だったが、その後離れてしまっていて、それが中1で、再び同じクラスとなったのだ。
そしてその二人の友達であるM.Mとも仲良くな・・・ってないな。まだ。
女3人いるところに、俺が混ざると
特に俺はK.Aと仲がよく、話し始めると残り二人をほっぽって、二人だけの世界に入ってたんで
残り二人には、少し恨まれてた感があり
A.Mは幼稚園時代から俺を知っているからまだよかったものの、中学で知り合ったM.Mは完全に俺とは他人だったので、最初は俺のことを嫌っていた。
おそらく、『3人の仲を邪魔する悪者』くらいに思われてたんじゃないかなと思う。
2000年 中学1年夏
ある日、ついに俺と父親がぶつかった。
原因は何かは覚えていないが
「そんなに前のお母さんがいいなら、家を出て行け」
そういわれて、夜中に荷物をまとめることとなった。
その際に、「あんたの貯金は一切渡さないからな。」と言われた。
今にして思えば、すでに使い込んでいたのではないだろうか。と思うのだが。
どちらにしても同じことだった。そのお金が返ってくることはなかったのだから。
夜中に、母親に電話し、今からそちらに行くという事を伝え
父親が家にもって帰ってきていた仕事用のトラックへと荷物を運び
母親の元へと向かった。
トラックの中で、「○○(妹)の事は別だからな?」と言われたのを覚えている。
どうも妹を渡す気はなかったようだ。
そして俺は、母親の住むアパートの前で降ろされ、荷物も投げ捨てるようにその場へと下ろされた。
「じゃあな」
父はそう言って去っていった。
母親が出てきて、とりあえず荷物を家の中に運ぶこととなった。
外は今にも雨が降りそうな天気だったので、急いで入れた。
それからは、母親との二人の生活が始まった。
妹は、母親に会うことを許されず、学校へ行く以外は、ほぼ監禁状態へと変わった。
ストレスにより、視力が急激に落ち、今までめがねなどかけてなかったのが、めがねをかけるようになった。
俺と母親はよく、夜中に車で父の家の前まで様子を見に行っていた。
車の音で気づくのか、家の前まで行くと、自室の窓から手を振る妹の姿があった。
コンタクトは、それだけだった。
しかしある日、母親が誘拐のようにして妹を学校帰りに連れて帰ることにより、妹も母親と一緒に住むようになった。
一度は連れて返されたが
二度目からは妹の友達で、母親同士も仲のいい子のと、その母親の協力で
母親が帰るまでは、その子の家で預かってもらうようになっていた。
そんなこんなしながら、裏では再び親権問題で裁判所を通じて争っていたようだ。
しかし、何があったか(予想でしかないが、再婚相手が何か口出しをしたのではないかと思うのだが)突如、親権をそちらに渡す。と言い出し、それにて問題は終了した。
・・・・・・のもつかの間。
今度は母親が再婚すると言い出したのだ。
相手は一人身のおっさん。
・・・・・・というかうちの母との件で分かれてきたらしい。
別れる前は、子供もいたらしいが、年齢も性別も、人数もよく知らない。
知り合ったのは、大学時代でそれからずっと友人として付き合ってきたらしいが、
いつしかそれが恋愛へと変わり、
今回の離婚騒動の一件も、その男性との浮気がきっかけだと言う。
俺は今度は反対はしなかった。
母親の好きにしたらいいと思うし
あまりその人に悪印象はなかったからだ。
前みたいに子供がいるわけでもないし
そもそも、俺は父親のことは嫌っていたが、母親はそうでもなかったからだ。
中1の終わりか中2の頭くらいかな?
結局再婚した。
しかし・・・静岡の人なのだが、仕事をやめて広島に来て
家でずっとゴロゴロしてる姿は、仕事もしないで母親にくっついてる紐にしか見えなかった。
母親も母親で、父親の時と動揺、その人の言うことには、基本的にイエスマンだった。
・・・いや、女性だからイエスウーマンか。
また、この年、初めて人に見せるべき小説を書いた。
当事流行だったノストラダムスの大予言にちなんだもので
2001年の7月、空から降ってきた大魔王と、中学生が戦うという内容の物だった。
原稿用紙20枚程度の内容だった気がするが、初めてまともに書いた小説だ。
すでに原稿はどこかに行ってしまい読むことはできないが。
タイトル「アンドロメダからの使者」(当事、予言に出てくる「アンゴルモアの大魔王」を、「アンドロメダの大魔王」と間違って記憶していたため。)
あ、はい。どうでもいいですね。自分史続けます。
2001年〜2002年 2年生(13歳〜14歳)
中1の成績。
10段階評価、2と3のオンパレード
たまに5とか。
中2、夏のテスト。
英語19点
社会21点
この結果に感動したのか、大喜びしたのかは知らないが、母親は俺を塾へと通わせ始めた。
英語は元々、単に中1の時の英語の先生が嫌いで、やる気がでなかっただけなので
塾に入ってからは、みるみる成績上昇。
社会も・・・というか英語もそうだが、塾の先生の力量だろうな。
ある程度点が取れるようになった。
この塾の、塾長とは今も関係が続いており
うちの近くまで来たときは、顔を出しに来る。
母親は・・・・・・というかどこの親もそうなのだろうが、勉強しろしろとうるさかった。
勉強していても、ちっとも勉強していないじゃないか。といわれていたし
テストで80点以下だと
「私はテストでどの科目でも80点以下なんか取ったことない」の一点張りだったし
「私立なんか入ろう物なら、お金なんてないんだから」とよく言われていた。
俺はすでに受験する高校を決めていて
(公立高校で、そこそこ頭のえらい方と言われていた高校だ。少なくとも中の上くらいはある。)
「その高校落ちたら、家出て一人で働くから、ほっておいてくれ。」
と、いくら言っても聞かないし、こっちはそこの高校に入れる程度には勉強してるつもりでも
母親は頭ごなしに怒るだけだった。
何かといえばすぐ勉強、勉強の親の考えに
俺は家にいることが苦痛となった。
M,NやT.Nを誘い、よく部活のための体力作りと言って
夜、走りに出ていた。
部活の練習と、そのジョギングとがあって
入学したとき83キロだった俺の体重は、中2の半ばでは64キロまで落ちていた。
持久走でも、学年19人中の4位くらいには位置していた。
ちなみに、中学2年にして小説の次作ができた。
この世界ができるより一つ前の世界から送られてきたアイテムを巡って争うシリーズ物だ
シリーズタイトルは「ミステリーアイテムズ」
第一作目は「ワープガン」だった。
もっとも、2作目を書き終えた地点で、飽きて書いてないのだが。
2作目のタイトルは「宮下 さなえ」だった。
4,5作で完結する予定のこの作品は、2作で未完のまま終わりを告げることになった。
この2作も すでにどこへいったのやら・・・で読めないが。
って、これもどうでもいいですね。すみません。自分史続けます・・・
中学2年生冬
俺はここで、これまでの人生の中で、もっとも出会ってはいけなかったものに出会います。
きっかけは、冬休みに母親の実家に帰ったときのことです。
母の伯父の一人は、塾を経営しており、俺はその塾の生徒の何人かとも仲良くなっていました。
そして、塾で知り合った友達の一人は、当事高校生で、パソコンに詳しく
Win○Xなどの共有ソフト関係や、CD-Rというものの存在(それまで、記録媒体はFDしか知らなかった。)同人ゲームに18禁ゲームなどを知ることとなりました。
そして、それと同時に知ってしまったのが・・・
そう。ラグナロクオンライン。
おそらくこれに出会っていなければ、俺の人生はもっともっと違うものだったのではないだろうか
と思います。
当事βテスト中だったそれは、俺のボロPCじゃ動くことなく、そのときは友人のパソコンから見ているだけでした。
が、いつかやりたい!という決意は、このときに生まれました。
2002年〜2003年 中学3年生(14歳〜15歳)
中3になると、受験生と言うこともあってか、親は余計に勉強しろしろと言うようになった。
ある日、ちょっとパソコンで遊んでたら
「またパソコンばっかりして遊んで、勉強しろ」
といわれたことがきっかけで、キレてパソコンを床に叩き落して壊し
「これでいいんだろ?」と言った。
パソコンがなくなればゲームをする。
ゲームがなくなれば本を読むなりして遊ぶ。
本がなくなれば、自分で小説を書いて遊ぶ。
いくらでも遊ぶ方法はあるのに
「パソコンをしているから勉強をしない。」
という親の考えに頭にきての行動だった。
自分の中で、「勉強をする」と決めたとき以外は、やる気なんて一切ないのに。
結局、俺が志望校に合格したところで、親の考えは変わらなかったが。
基本的には「やって当然 できなきゃ怒る」が親の考え方だったのかも知れない。
このとき、俺が心に決めたのは
「子供の考えを認める大人になろう」ということだった。
俺は、中学のときから「子供だから」という理由で言い分をまったく聞かない大人の考えが嫌いだった。しっかり、志望校に入るだけの勉強はしてたのに・・・。
母親はよく、モデルハウスへとでかけていた。
いろんな家を見て楽しんでいるようだった。
今日言った家は〜と楽しそうに語るのを覚えている。
そんなある日だった。
突然「聞いて! 今日ね、おっきな買い物しちゃった!」
と言い出した。
やな予感を覚えつつ、何を買ったのか聞いてみると
「マンションの1室!」と答えた。
それはそれまで住んでいたアパートが気に入っていたし
いい加減引越しには疲れてきたのでやだったのだが
そのマンションへと、引っ越すことがきまった。
そして、その矢先、再婚相手の男性は、ボリビア(南米の南の方)へと旅立った。
ボランティア活動で2年ほどあちらに住み込みで働いてくる。などと言って出て行った。
向こうでの滞在費は出るが、こちらにまわすほどの給料はでないらしい
完全に趣味だ。
俺としては別に本人の自由だと思っていたのでどうでもよかったが。
学校では、受験生ということもあり、年に数回、公立入試の模擬テストが行われていた。
前半はよく覚えてないが、入試前には、全教科6割程度の成績になっていた。
おそらく、数学が90点くらいで、英語や社会が40点くらいだったと思う。
国語が60点 理科が70点 まぁ、大体そんなもんじゃないかな・・・。
また、塾でも、よく全国の公立高校の過去問を出してきて、塾長と勝負するなどしていたが
結局塾長に勝てたことは 全教科含め1度もなかった。
あの頃は、よく勉強したなぁ・・・などと思うが、親にしてみれば、ぜんぜんしてなかったと言う。
そして、春。
長かった中学生時代に幕を閉じることとなった。
この頃には、M.Mとも仲良くなっていて、K.Aと同じくらいにはなっていた。
T.NやM.Nとも、3年間友に過ごしたが、これでお別れだった。
T.Nは、俺と同じ高校を受験して落ち、私立高校へと進んだ。
M.Nは県内トップのエリート高校へと進んだ。
M.MやK.Aは、俺と同じ高校へと進んだので、お別れかと思いきや、まだまだ付き合いは続くことになる。
小学生編では触れなかったが、俺が小3の頃から好きだった女の子がいる。
彼女も、その高校へと進む事となったのだが、その後彼女は、生意気になり
しかも化粧に目覚めたはいいが、なんか方向性がおかしい。
(というか、元々かわいいのが、化粧して悪くなってる感じ。)
で、俺の心は冷めていった。
同時に俺の心はK.Aへと動くのだが、これはまた高校編で。
2008年08月31日(日) 記事No.278
自分史、小学生編です。
俺の人生の、不幸の始まり編を、とくとお楽しみください。
俺の人生の、不幸の始まり編を、とくとお楽しみください。
小学生編
1994年4月(6歳)
幼稚園を卒園し、小学校へと入学した。
1994年〜1996年 小学校低学年(6歳〜8歳)
うちは、春休みや夏休み、冬休みなどの大きな休みの時は
毎回母親の実家である群馬へと行くこととなっていた。
群馬には、祖父と母方の伯父二人と、従兄弟が二人いた。
伯父のうちの片方は、子供好きだったのか、よく遊んでもらった覚えがある。
また、夏には海、冬にはスキーなど、家族でよく遊びに行った。
小学生の頃から俺は、エロガキだった。
子供のキャンプツアーにいけば、スタッフのお姉さんの、
首元から服に手突っ込んで、胸を触ってみたり
妹の友達の家に、一緒に遊びに行ったときに
妹の友達の姉(俺の1つ年上)のトイレのドアを開けようとしたりしていた記憶がある。
また、学校での俺はやんちゃだった。
小1の頃、経緯は覚えてないのだが、ある女子生徒の目のすぐ近くに、えんぴつをつき立てたことや
小2の頃、友達数人で、転校してきたばかりの女子生徒へと石を投げて遊んでいたところ、たまたま俺が投げた石が頭にぶつかり、頭を縫う、けがをさせたこともある。
通算3回かな?2回かも知れない。
給食時間中に、もめて
キレて給食の食管を生徒に投げつけた事もある。
『キレると何をするか分からない子』
という印象が強かったかな。
もっとも、普段からやさぐれていたわけではなく
普段は、自分で言うのもなんだが、どちらかといえば優しい子だったと思う。
また、習い事として、ピアノと水泳をやっていた。
このどちらも中学2年まで続けたが
ピアノの方は、後半、いやいややっていた。という感じで、まったく上達の気配はなかった。
1996年〜1998年 小学校中学年(8歳〜10歳)
それまで、仲のよかった家族関係に、ひびが入る事となる。
母はよく、父親の悪口を言っていたし
その頃から、母は働き始めた。
父親は夜はなかなか帰ってこず俺や母、妹が寝た後に帰ってきていたりした。
朝は遅くまで寝ていて、母親が仕事にいった後に起きてきていた。
いつ聞いたかは覚えていないが、母親と顔を合わせたくないから。という理由だった。
顔を合わせれば、よく喧嘩をしていた。
子供ながらに、俺はそれを利用していたところもあった。
父親に怒られれば、母親に泣きつけば、いつのまにか母親と父親の喧嘩に発展し、矛先が変わる。
母親に怒られればその逆だった。
また、母親はたまに、寝るときに布団の中で泣いていたりもした。
一度、自殺をしようとしたことがあるという話を、小学生の頃聞いたことがある。
睡眠薬を大量に摂取し、自殺をしようとしたが、結局死ねなかったらしい。
離婚しない理由は、離婚の際の親権(親の権利。子供をどちらが引き取るか)の問題で裁判をしていて、それが長引いていたからだった。
スキーや海も、行くとしても母親と3人で だった。
父親と母親、別れたらどっちと一緒に住みたい?
そんな質問をされたこともある。
どっちも一緒が一番いいけど、どっちか選べと言われたら、母。と答えてた。
また、小3の6月に俺は、自転車で遊びに行っている途中、車にはねられて入院した。
足がぱっかり開き、骨が折れていて
頭も少し打っていた。
一ヶ月の入院とその後一ヶ月のリハビリで関知した。
1998年〜2000年 小学校高学年(10歳〜12歳)
裁判の決着がついたのは、多分俺が小5のときだ。
もしかしたら小4かも知れない。
母親は、一人で家を去ることとなった。
と、言っても、住んでいたのは元の家から1キロほど山を登った場所だった。
2週間に1回の土日に会うことが約束され
月2回は妹と二人で、母親の家へと泊まりに行っていた。
また、離婚祝いと賞してパソコンの一台を買ってもらった。
が、しかし後で知った話だが、このお金は、俺の小さい頃から(強制的に)貯金していた、お年玉から出ていたらしい。ちなみに、交通事故にあったときに降りた保険も、同じ口座に入っている。
その後もこの口座の貯金はすべて父親が使い込んでしまった。
パソコンを手に入れたことにより、小6の頃にはインターネットで、チャットをするようになった。
この頃から水ポケ本舗(2004年閉鎖)というサイトをよく覗いており
掲示板を荒らし、一時掲示板利用不可になったことも(ぁ
サイトのコンテンツの1つ、水ポケチャット(これのみ、管理人が移動し、今も運営中。ただしかなり過疎っている。)には、発言数ランキングという機能があり
(荒らしの原因となるので、ある日消えましたが)そのランキングでも3位をキープしていた。
当事のハンドルネームは、ポケモンカード関係のキャラクターにして関係者「イマクニ?」を元ネタにした
「今国?」でやっていた。
ちなみに2位はハンドルネーム「かめるん」
当事中学生の男の子。コーヒーが好きだった。
1位は、ハンドルネームは忘れたが
当事高校生か大学生くらいのおねぇさん
よくおばちゃんおばちゃん。といってからかった覚えがある。
当事の俺を知るものがいたら、一報くれるとうれしいかも。
また、ぴちゅぅちゃっとこと通称ぴちゅちゃにもよく顔を出していた。
水ポケちゃっともぴちゅちゃもBBSがあるが、管理人放置状態なので、あまり触れないほうがいいだろう。
父親は週に1度は、俺と妹を祖母に任せ、出張と言って一晩帰ってこなかったので
徹夜でチャットに明け暮れた日も、少なくない。
父親は暴力的であった。
頭に血が上れば
よく俺の胸倉をつかみ、投げ飛ばされたことが何度もある。
その衝撃で、何枚もTシャツがやぶかれた。
吹っ飛んでは、「立て」と言われ立たされ
立つと再び殴って吹っ飛ばされる。
それでも、反抗的な態度を変えない、俺も俺なのだが・・・
また、小6になると、父親が再婚の話をちら付かせ始めた。
俺は今の生活に満足していたので、再婚は反対だった。
しかも再婚相手は俺と同い年の男の子が1人、1個上の男の子が1人
さらにその2つ上に、もう一人男の子がいるという。
不安はでかかった。
しかし、父親は再婚する気まんまんで
「お前、兄貴欲しいって言ってたろ?」などと言っていた。
それはそういう意味ではないのに・・・。
新しい家を建てる。などという話も
よく祖父、祖母としていた。
1994年4月(6歳)
幼稚園を卒園し、小学校へと入学した。
1994年〜1996年 小学校低学年(6歳〜8歳)
うちは、春休みや夏休み、冬休みなどの大きな休みの時は
毎回母親の実家である群馬へと行くこととなっていた。
群馬には、祖父と母方の伯父二人と、従兄弟が二人いた。
伯父のうちの片方は、子供好きだったのか、よく遊んでもらった覚えがある。
また、夏には海、冬にはスキーなど、家族でよく遊びに行った。
小学生の頃から俺は、エロガキだった。
子供のキャンプツアーにいけば、スタッフのお姉さんの、
首元から服に手突っ込んで、胸を触ってみたり
妹の友達の家に、一緒に遊びに行ったときに
妹の友達の姉(俺の1つ年上)のトイレのドアを開けようとしたりしていた記憶がある。
また、学校での俺はやんちゃだった。
小1の頃、経緯は覚えてないのだが、ある女子生徒の目のすぐ近くに、えんぴつをつき立てたことや
小2の頃、友達数人で、転校してきたばかりの女子生徒へと石を投げて遊んでいたところ、たまたま俺が投げた石が頭にぶつかり、頭を縫う、けがをさせたこともある。
通算3回かな?2回かも知れない。
給食時間中に、もめて
キレて給食の食管を生徒に投げつけた事もある。
『キレると何をするか分からない子』
という印象が強かったかな。
もっとも、普段からやさぐれていたわけではなく
普段は、自分で言うのもなんだが、どちらかといえば優しい子だったと思う。
また、習い事として、ピアノと水泳をやっていた。
このどちらも中学2年まで続けたが
ピアノの方は、後半、いやいややっていた。という感じで、まったく上達の気配はなかった。
1996年〜1998年 小学校中学年(8歳〜10歳)
それまで、仲のよかった家族関係に、ひびが入る事となる。
母はよく、父親の悪口を言っていたし
その頃から、母は働き始めた。
父親は夜はなかなか帰ってこず俺や母、妹が寝た後に帰ってきていたりした。
朝は遅くまで寝ていて、母親が仕事にいった後に起きてきていた。
いつ聞いたかは覚えていないが、母親と顔を合わせたくないから。という理由だった。
顔を合わせれば、よく喧嘩をしていた。
子供ながらに、俺はそれを利用していたところもあった。
父親に怒られれば、母親に泣きつけば、いつのまにか母親と父親の喧嘩に発展し、矛先が変わる。
母親に怒られればその逆だった。
また、母親はたまに、寝るときに布団の中で泣いていたりもした。
一度、自殺をしようとしたことがあるという話を、小学生の頃聞いたことがある。
睡眠薬を大量に摂取し、自殺をしようとしたが、結局死ねなかったらしい。
離婚しない理由は、離婚の際の親権(親の権利。子供をどちらが引き取るか)の問題で裁判をしていて、それが長引いていたからだった。
スキーや海も、行くとしても母親と3人で だった。
父親と母親、別れたらどっちと一緒に住みたい?
そんな質問をされたこともある。
どっちも一緒が一番いいけど、どっちか選べと言われたら、母。と答えてた。
また、小3の6月に俺は、自転車で遊びに行っている途中、車にはねられて入院した。
足がぱっかり開き、骨が折れていて
頭も少し打っていた。
一ヶ月の入院とその後一ヶ月のリハビリで関知した。
1998年〜2000年 小学校高学年(10歳〜12歳)
裁判の決着がついたのは、多分俺が小5のときだ。
もしかしたら小4かも知れない。
母親は、一人で家を去ることとなった。
と、言っても、住んでいたのは元の家から1キロほど山を登った場所だった。
2週間に1回の土日に会うことが約束され
月2回は妹と二人で、母親の家へと泊まりに行っていた。
また、離婚祝いと賞してパソコンの一台を買ってもらった。
が、しかし後で知った話だが、このお金は、俺の小さい頃から(強制的に)貯金していた、お年玉から出ていたらしい。ちなみに、交通事故にあったときに降りた保険も、同じ口座に入っている。
その後もこの口座の貯金はすべて父親が使い込んでしまった。
パソコンを手に入れたことにより、小6の頃にはインターネットで、チャットをするようになった。
この頃から水ポケ本舗(2004年閉鎖)というサイトをよく覗いており
掲示板を荒らし、一時掲示板利用不可になったことも(ぁ
サイトのコンテンツの1つ、水ポケチャット(これのみ、管理人が移動し、今も運営中。ただしかなり過疎っている。)には、発言数ランキングという機能があり
(荒らしの原因となるので、ある日消えましたが)そのランキングでも3位をキープしていた。
当事のハンドルネームは、ポケモンカード関係のキャラクターにして関係者「イマクニ?」を元ネタにした
「今国?」でやっていた。
ちなみに2位はハンドルネーム「かめるん」
当事中学生の男の子。コーヒーが好きだった。
1位は、ハンドルネームは忘れたが
当事高校生か大学生くらいのおねぇさん
よくおばちゃんおばちゃん。といってからかった覚えがある。
当事の俺を知るものがいたら、一報くれるとうれしいかも。
また、ぴちゅぅちゃっとこと通称ぴちゅちゃにもよく顔を出していた。
水ポケちゃっともぴちゅちゃもBBSがあるが、管理人放置状態なので、あまり触れないほうがいいだろう。
父親は週に1度は、俺と妹を祖母に任せ、出張と言って一晩帰ってこなかったので
徹夜でチャットに明け暮れた日も、少なくない。
父親は暴力的であった。
頭に血が上れば
よく俺の胸倉をつかみ、投げ飛ばされたことが何度もある。
その衝撃で、何枚もTシャツがやぶかれた。
吹っ飛んでは、「立て」と言われ立たされ
立つと再び殴って吹っ飛ばされる。
それでも、反抗的な態度を変えない、俺も俺なのだが・・・
また、小6になると、父親が再婚の話をちら付かせ始めた。
俺は今の生活に満足していたので、再婚は反対だった。
しかも再婚相手は俺と同い年の男の子が1人、1個上の男の子が1人
さらにその2つ上に、もう一人男の子がいるという。
不安はでかかった。
しかし、父親は再婚する気まんまんで
「お前、兄貴欲しいって言ってたろ?」などと言っていた。
それはそういう意味ではないのに・・・。
新しい家を建てる。などという話も
よく祖父、祖母としていた。
2008年08月31日(日) 記事No.277
RO自分史を書いたときから
書こうと思ってた。
書こうと思ってた。
幼少編
幼少の頃の記憶なんて、ほとんどと言って良いほどない。
だから、今から書くことは、後々聞いたことがほとんどだ。
1988年7月5日(0歳)
広島県の、とある病院で俺は生まれた。
が、しかし父親の仕事の都合で俺が3歳になるまでの間に
俺は埼玉へと引っ越した。
幼稚園は埼玉の幼稚園へと入り
最低でも、女の子と男の子の友達が一人ずついたのを覚えている。
住んでいたアパートの裏が林になっており
よくフェンスを乗り越えて、遊んだ。
ある日、そのフェンスから落ちて腕を骨折したこともある。
家の前にあった駐車場では、よく自転車の練習をした。
1991年(2歳〜3歳)
母親のお腹の中には、二人目の子供、つまり俺の妹がいた。
母親は、体が弱かったせいだと思う。
妹が生まれる3ヶ月前の1991年多分6月に、
俺は広島の、祖父と祖母の家に預けられた。
1991年9月(3歳)
俺に妹ができた。
同時に俺は母親の下へと帰るが
この3ヶ月で、俺は3キロ太っていたという。
会った瞬間、母親が『この子はどこの子だろう?』と思い
『もしかして4LDK!?』と分かった時には、びっくりしたらしい。
また、この頃の子供の体は、細胞の数?が決まる時期で
この時期に太っている子供は、今後も太りやすい体型になるという。
1992年(3歳〜4歳)
再び、父親の仕事の関係で、住み慣れた埼玉を離れ
広島へと帰ることとなった。
友達に見送られる中、車に乗り込み、埼玉を去ったのを覚えている。
以降の生活は、祖父と祖母の家での共同生活となった。
そして、広島で新しい幼稚園へと入った。
正直、この頃の記憶はよく覚えていないが
何人か親しい友達を作り、よくTVゲームなどをして遊んだ記憶がある
幼少の頃の記憶なんて、ほとんどと言って良いほどない。
だから、今から書くことは、後々聞いたことがほとんどだ。
1988年7月5日(0歳)
広島県の、とある病院で俺は生まれた。
が、しかし父親の仕事の都合で俺が3歳になるまでの間に
俺は埼玉へと引っ越した。
幼稚園は埼玉の幼稚園へと入り
最低でも、女の子と男の子の友達が一人ずついたのを覚えている。
住んでいたアパートの裏が林になっており
よくフェンスを乗り越えて、遊んだ。
ある日、そのフェンスから落ちて腕を骨折したこともある。
家の前にあった駐車場では、よく自転車の練習をした。
1991年(2歳〜3歳)
母親のお腹の中には、二人目の子供、つまり俺の妹がいた。
母親は、体が弱かったせいだと思う。
妹が生まれる3ヶ月前の1991年多分6月に、
俺は広島の、祖父と祖母の家に預けられた。
1991年9月(3歳)
俺に妹ができた。
同時に俺は母親の下へと帰るが
この3ヶ月で、俺は3キロ太っていたという。
会った瞬間、母親が『この子はどこの子だろう?』と思い
『もしかして4LDK!?』と分かった時には、びっくりしたらしい。
また、この頃の子供の体は、細胞の数?が決まる時期で
この時期に太っている子供は、今後も太りやすい体型になるという。
1992年(3歳〜4歳)
再び、父親の仕事の関係で、住み慣れた埼玉を離れ
広島へと帰ることとなった。
友達に見送られる中、車に乗り込み、埼玉を去ったのを覚えている。
以降の生活は、祖父と祖母の家での共同生活となった。
そして、広島で新しい幼稚園へと入った。
正直、この頃の記憶はよく覚えていないが
何人か親しい友達を作り、よくTVゲームなどをして遊んだ記憶がある
