2012年08月06日(月) 記事No.1282
ブログ1ヶ月放置したようで

久々に広告出てますね。


広告消しの意味も含め、なんとなく考えていた戯言でも。



   

確率ってなんなんだろうか。と、最近ふと思う。

表と裏の重さのバランスが同じコインを投げて
表の出る可能性は50%、裏の出る可能性は50%

その地点で、俺は不思議でしょうがない。
なんでこれが70%と30%にならないのだろうか。

「バランスがいい」という状態になるのが不思議だ。
左右対称であるとか、作用と反作用が同じ力だとか
そういう「バランスがいい」状態になることが不思議である。
作用より反作用の方が強くたっていいじゃないか。
押したら押し返される力の方が強くたっていいんじゃないだろうか。
いやまあ、もし世界がそんな物理法則になったら、おそらく俺達は、何度かバウンドした後、
宇宙に投げ出されるわけだが。


なんかこう「ちょうどいい」という状態に落ち着いている事が不思議でしょうがない。

また、コインの裏表を決めているのは、実際には確率などではないだろう。
コインを投げる指の強さ、そのときの空気抵抗、(キャッチしないのであれば)机の摩擦力、重力、気圧、標高、天候、酸素濃度、温度、湿度、その他諸々の自然的影響を受けて
そのコインの表裏は決定するのだろう。
人にはそれが特殊な機械がなければ知覚できず、コインを投げる際にそれらを計算することはできないので、実質的には「確率」となる。
では、コインを投げた時、その全てが表になる条件と裏になる条件の境目であった場合、コインはどうなるのだろうか。
コインを投げる指の強さの、裏表が決定する影響力がともに1:1、空気抵抗が与える影響力が1:1、机の摩擦力が与える影響力が1:1。
コインは机から若干浮いた位置で、延々と回転し続けるのだろうか。
まるで「バター猫のパラドックス」で起こりうる現象の、仮設の一つのように。



もう1つ。
果たして本当に確率というものは存在しているのだろうか。
確率というか、この場合「偶然」と言ったほうがいいかもしれない。
我々は、「偶然」や「気分」で思考を変えることがままある。
たまたまこの時、こう考えてしまった。同じ事柄でも、違うときに考えれば違う結論に至ることはある。
右の道と左の道、どちらに進もうかと考えた時に、どちらの道に対する情報も
等しく持っていた場合、あるいは等しく持っていなかった場合
その選択は偶然によって選択される。
「偶然」右の道を選んだ。「偶然」左の道を選んだ。
人生において、そのようなことはよくあると思う。
しかし、これは本当に偶然なのだろうか。


例えば、未来からタイムスリップしてきた奴がいるとする。
そいつは俺ととても親しいやつだったとする。
そいつに話を聞けば、俺は何人と付き合い、何歳で結婚し、何人子供ができ、何歳で死ぬかが
全て分かるだろう。

だけど、俺が何人と付き合うか、何歳で結婚するか、何人子供ができるか、何歳で死ぬかなんて
全部偶然の積み重ねのはずだ。
そんな人生全てを例に出さなくてもいい。
未来人にこう聞くのだ。
「俺は昨日、2つの道の選択を迫られたんだ。
ほとんど気分と言っていい理由で、偶然と言っていい理由でそっちの道を選んだ。
あの時、右の道を歩んだかい? 左の道を歩んだかい?」
すると未来人は、そのどちらかを答えるだろう。
そしてその答えは、自分が選んだ道とおそらく正しいだろう。
でも、自分が道を選んだのは、気分であり、偶然である。
今度は自分が、その未来人と共に過去に行ってみてもいい。
おそらく過去の自分は同じ道を選んでいるだろう。
その過去の自分を連れて、また過去に戻ってもいい
やはり同じ道を歩んでいるだろう。

何がいいたいかというと、全ての流れは
すでに決定されているのではないだろうか。
我々が何気なく選んでいる選択というのも
すでに、それを選ぶようにできていて
自分で何かを考えているようで、すでにそこでそれを考えることは決定されているのではないだろうか。
そうであれば、それはもう何をやったところで、偶然ではない。
気分で決定したものも、なんとなく決定したものも、逆に熟考に熟考を重ね決定したものも
全て未来から見れば決定されていたことで
自分で考えたようで居て、それは決められていた事なのではないのだろうか。
じゃあ、考えるのをやめるべきか?
そこで考えをやめたところでそれすらもすでに決定されている事なのだけれども。







以上。厨二病的な話をしてみました。
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